新築改装した犀ヶ崖資料館とその周辺

 

「兵どもが夢の跡」も今は、崖の上の国道257号線姫街道を数多くの車が往来しています。しかし一瞬、狭隘(きょうあい)な岨(そば)を包み込む樹木の間から古戦場の面影を垣間見ることのできる空間です。


 

三方原で武田信玄の軍勢と戦った家康軍は、大敗を喫し浜松城に逃げ帰りました。徳川軍は一矢報いようと、犀ヶ崖で夜営をしている武田軍に夜討ちをかけ、崖に追い落としました。

 

長い歴史を経て、現在残っている犀ヶ崖は深い木立が谷を覆い、今は往時の全容を知るすべもありません。

江戸時代の郷土の国学者、内山真龍が「遠江国風土記伝」の中で次のように記しています。

『木が生い茂っており、崖の下はまっ暗で深いのか浅いのか見当がつかないくらいであった。』

 

 

 

芥川賞作家井上靖の詩集「北国『カマイタチ』」の中では、「(前略)今でも樹木鬱蒼とした深い谷で、橋の上からのぞくと、谷底にはいつも僅かな溜まり水が落ち葉をひたしていた。ここは日暮時にカマイタチが出るというので皆から怖れられていた(後略)」と述べています。

 

 

  

 

付近の子供たちがいたずらをすると、「犀ヶ崖に連れていくぞ!」と言えば、聞き分けがよくなったそうです。

そんな緑や木々に資料館は静かに包まれています。

また、資料館の周辺には三方原合戦に謂われのある石碑があります。

家康の命は多くの家臣たちの犠牲によって守られました。夏目吉信は、家康の名前を自ら名乗り武田勢を引き寄せておいて、その間に家康を浜松城へ逃がしました。

また武田勢の中に刀一本で切り込み討ち死にした本多忠真。

そのほか、家康の朱色の鎧が目立つといって自分の鎧と着せかえて逃がした松井忠次や、敗走中家康の采配を奪って家康の身代わりをつとめた鈴木久三郎などが知られております。

 

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